Bundrailに生じた動詞的な意味について悩む。創作表現の足枷の実態とは

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こんにちは、Bundrailです。現在ブログではBundrailという名前を使わせてもらってるわけですが、最近このBundrailという単語に、意図していた意味とは違う意味がついてしまったわけですね。

その意味を紐解くことで、今の私が置かれている状況や不満に感じている社会課題が分かってくると思うので、ぜひ共有させていただければと思います。ちょっと思想強めかもしれません。

Bundrailの意味は?

まず、私がBundrailという単語に持たせた意味の数々を見てもらいましょう。

Bundrail / bundrail(バンドレール、バンドレール-する、バンドレー-る)

  1. 【固有名詞】ブログ「Bundrail.net 分霊コネクション(=このサイト)」の管理者の名前。
  2. 【名詞、動詞】名義を統合すること。
  3. 【名詞、動詞】社会倫理や法律を遵守すること。遵守するために自分を縛るように律すること。
  4. 【名詞、動詞】社会倫理や法律を、(特に創作表現のための)足枷や制約と感じること。

※動詞は、基本的にサ変動詞として活用されるが、未然形などの一部の活用の場合には「バンドレー-る」のような五段活用の動詞になることがある。特に動詞的用法のときは、小文字はじまりで書くことが多い。

はい。バラバラですね。

「Bundrail」は、私が英単語「bundle」と「rail」を掛け合わせて作った造語です。これはブログ名の由来のページでも紹介されていますが、Bundrailの各単語の意味にはこの二つの英単語のイメージがよく現れています。3と4が最近追加された意味です。

1では、名義を束ねた存在として、「1人が持つ複数の名義を別人のように扱ってはならない」という、実名主義・原始的な個人主義や、一個人につき一つの名前・ないしは一つの人格のみの発現を許す立場の考えのもと、私が好きな交通に関係ある単語を取り込んで、私が持てるただ一つの変名としてBundrailを定義しています。

2では、1の意味を一般化して、私や私以外の人々が名義を一本化することを漠然とbundrailと言っています。しかし、私は、現在この意味でbundrailという言葉を使うときに「名義統合」という言葉を代わりに使うことを推奨しています。一応これがBundrail.netの当初の由来ではあるんですがね。

3・4では、bundleもそうなのですが、印欧語系の同じ語根を持つ英単語bindやbondなどの影響も受けています。ちょうど縛る、結束などの意味を持つ単語群ですよね。

レールとは、進むべき方向がわかっているような、何かへ向かう道筋であったり、王道(無難な道)の比喩としてしばしば成句などに登場します。「人生のレールを外れる」などと言った表現は、鉄道マニアでなくても聞いたことがあるフレーズでしょう。

そうです。bundrailとは、何か縛りや、レールから外れない道を行かせるように拘束されているような状況の比喩から意味がついたのです。

最近では、何か法律や倫理、その他道徳的な空気感によって何がしかの制約を感じてしまった時に「bundrailだ」、「bundrailを感じる」「bundrailされている」、「bundrailらないでよ」などと心の中で唱えているものです。

特に英語では、同じ単語でも名詞にも動詞にも固有名詞にもなりうる単語があります。今回新しい意味を付与された「Bundrail」という単語もその一例です。自分の中でしか通じない単語なので変に思うかもしれませんが、Bundrailには動詞的用法の単語があるんです。

新しい意味をつけた理由:bundrailに見える「縛り」と「道筋」

Adobe Fireflyによって生成された、草原に敷かれた直線のレールの上に縄が落ちているイラスト

bundrailという単語を発した時、私には2つのネガティブなイメージが脳裏に浮かびます。

何か自由に向かって突き進もうとしても、自分は捕虜のように縄でぐるぐる巻きにされて先に進めない状態。ライフサイクルという、社会が敷いた路線の安全運行のために、迂闊にレールを外れることができない状況。

社会の大勢に前ならえで行くのか、レールに外れずに行くのか、正解はありませんが、人生生きていれば必ずいつかにこの世の不条理を感じる瞬間があるはずです。

そのような社会の不条理を端的に表したのが、Bundrailという概念なのです。

では、私Bundrailがいま最もbundrail(社会的な不条理)だと感じていることは何でしょうか。

オタクの国日本と創作表現

私は、様々な媒体で表現活動を行なっていくにつれて、創作活動や表現活動が思想感情を表現し自己実現や生きがいにもつながる素敵な営みであるという哲学を見出しました。私の生きる上でのミッションは、こうした創作活動に自分も関わりながら、リミックスを含めた創作活動を通じて、みんなの素敵な表現ができる社会を保つことであります。

私は、昔はドラマ、映画、アニメなどは不安定で激しい情緒的な表現については避けていました。しかし、今ではどのような創作的表現も博愛の心を持って、どんな創作的表現も素晴らしいその人なりの個性が溢れ出てる、表現されているということで受け入れています。好き好んで見るコンテンツの選り好みはしますが。

日本では、アニメや漫画・ゲームなどの創作が盛んです。世界的に、商業的に大成功を収めている作品・IPがたくさんあります。

こうしたACG文化を支えてきたのは、他ならぬファンカルチャーです。ファンがイラストやコスプレなどを通じて当該キャラクターを模倣しようとしている試み(二次創作)は、このブログをご覧の方も一度は見たことがあるはずです。ファンは「アニメスタイル」「漫画スタイル」の絵柄を描いたり、自分でそれっぽいオリジナルのキャラクターを生み出したりして、そう言ったところから漫画家やイラストレーターの感性が育まれていきます。一部の者たちは原作者や社会から批判される覚悟のもと、官能小説・漫画を描いたり、原作者の作品をリミックスして面白い・かっこいい画像や動画、音楽に仕立て上げようとする試みもあります。

二次創作はおろか、オリジナルであっても創作者というのは割を食うものです。ポリコレはしばしば創作表現と対立します。近年緩和されてきたと思えるかもしれませんが、一部の国では政治的・宗教的な理由で当該表現活動が許されずに本人の意思に反して公開をためらわれることがあります。日本でもたいていの場合政府が直接禁止するということはありませんが、社会の一部層から反対されて表現の不自由ということで迫害される立場にある創作表現は国内でも存在します。

創作に関わる色々な現実を知っている以上、私はあらゆる創作物に対して、どんなに卑劣であっても、等しく芸術的価値を感じるようになりました。最低でも、「気分が悪いけど、まあ、この作品はこの作者さんの表現があるからなあ」という評価をします。昔より受容の閾値が天地がひっくり返るが如く下がったわけですね。

二次使用・二次創作に厳しい空気感

そういうわけで、ここ数年、著作権制度や名義の在り方が近年のインターネット文化、ファン文化をベースとした考え方の社会と対応していない(アメリカ風の著作権ガチガチ固めるぜ・メディアの利益になるようにという考えの影響受けてる?)という実態や、社会の空気感・法的課題などによりフェアユースが認められない・二次使用や撮影における創作表現の発現に非常に困難をきたしているという現状に不満を持っていまして、表現の自由の更なる拡張とかいう、ふざけた前衛的な思想を持つようになりました。

そういうわけで、私の思想では表現の自由の観点から規制を緩くしてもいいんじゃないかと思う一方で、社会の要請により不自由を強いられる事項に対しては不自由になります。本来、Bundrailとしては不法行為をしないように法的倫理的に正しい行動をとるよう努めなくてはいけません。

無断でコンテンツを転載したりするようなことは、私Bundrailとしては基本的にやっていないつもりです(やっていたら教えてください)し、私に関わる人々や広告プロバイダーにまともな人と認知されるために主張しなければいけないと思うわけですが、個人の意見として無断転載もやむを得ない瞬間というのはあると思います。

もちろん、どんな創作にもリスペクトが必要であり、表現の自由を拡張したからといって全ての作品が途端に使用可能になるわけではないと思います。

しかし、法律を変えるべきだと声を上げるのは非常に勇気のいることです。ややもすればこいつは違法なことをしてるぞ!と叩かれてもおかしくはありません。

法律というのは、法律を制定しなかったことにより損害を被る人を念頭に置いて作られています。かのソクラテスは「悪法もまた法なり」と言いました。現在の社会の基準が現行法として現れている以上、私は社会の先導者として現行法に敬虔でいなければいけないのです。それがよく現れているのが、bundrailの3番目の意味に表れているような、不法行為をしないように、私自身を縛るように律するという意識なのであります。

不条理に対してメッセージを発信し続けるBundrailという語

もちろん私は、(上述1〜4のほぼ全ての意味で)Bundrailとして不道徳ではない立ち回りをしているわけです。いきなり私の内に秘めたる過激な思想を、発現させる事すら、世間は許してくれませんでしょうから、少し希釈した上で正直な思いをぶつけてみました。

このような寛容すぎる創作哲学を持つようになってから、有害な創作物など何一つとしてない、という考えを持つようになりました。それが法律や倫理的、道徳的にそぐわないようなモノであったとしてもです。

そこで、法令などを遵守し、いかなる批判を回避しないように緊張感を持ちながら作品を発表するという状態は、幸せでしょうか?普通の人は有無を言わさず「守れ」と強制するでしょうし、彼らは何も言わなくてもそのようなルールやマナーを守ることができます。しかし、例えば原作者や社会の明確な反対がないのに、創作禁止は愚か、世間の雰囲気で触れてはいけないゲテモノ扱いされている状況にある界隈をおかしくは思いませんか?

この状況、今はなあなあにされていますが、状況次第では誰もが罪人になってしまう状況にあります。罪人のイメージは拘束(bundle, bind, bond)です。

罪人とまでいかなくても、私たちは社会のレールというものがあります。ここでいう社会のレールとは、を指すものではありません。まさに人が守るべき、法律、倫理、道徳とか、私たちが倫理的で健全な社会の運営に従順な人間でい続けるための基本的なものです。

私は、創作をしている際には、こういう基本的な人の道(レール)にすら反することがある、実は創作とか表現とかいうのは勇気ある行為なのだというのを常に心に刻んで創作に臨んでおります。普通の人はこんなに大げさなことは考えないかもしれませんが、こう感じるのも私の悲観的な想像力ゆえです。

Bundrailは、その語のイメージ、求めている人がいるのに表現がBundrailされている(社会や法律などに縛られている)というイメージから、その名前を使っている限り、創作社会の不条理を社会に問いかけ続けていきたいと考えています。

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