アバターまつりから見えた、アバター共生社会の可能性と課題

ITテクノロジー

前回、アバターまつりでいろいろなアバターが社会の役に立つ仕事をしている様子を見てきました。

前回の記事をご覧になっていないからはこちらからご覧ください。この記事で取り扱ってもよい内容である、ロボットアバターの外向的な性格についてはこちらで言及しています。

大阪ATCのアバターまつりでおしゃべりなアバターたちの可能性を感じる体験をした
みなさんは、ロボットやバーチャルキャラクターが日常生活の一部として動き回ったり会話したりしている社会を想像できますか? アバターまつりは、そんな社会を垣間見せてくれるイベントです。 私はこのイベントをわざわざ大阪まで行って見に行って参りまし...

前回の記事の理解の補助になると思います。ぜひ動画も見ていってください。

ATCアバターまつりで私が体験した、サイバネティックアバターとの会話の様子
「「「コミュ障 vs サイバネティックアバター」」」2023年7月、私の研究会でこのイベントの情報が回ってきて、アバターたちを見にはるばる大阪まで行ってまいりました。アバターと生身の人間とのコミュニケーションを、ぼかしなくありのままを伝える...

今回は、実際に触れ合ってみた経験をもとに、改めてアバター共生社会がどういう未来になるのか、人やAIが入ることができるサイバネティックアバターの可能性と課題について考えていこうと思います。

アバターがタメ口で喋ることについて

テレコやコミューなどのアバターは、タメ口で会話を行っていました。私個人的には、相当親しくなった人にしかタメ口を許可しないんですけど、アバターはそんなことしないんですね。中身が人間でもAIでも役割によってタメ口になるという現象は起こりえます。

私がどれだけ敬語であっても、テレコやコミューはタメ口を貫きます。私はこの口調を聞いて、「まるで子供の会話だ」と感じましたけど、同時に「そういう設定なんだ」と肌感覚で理解したので、次にこの様子を見るときや、本格的なアバター共生社会になったときは、違和感がなくなると思います。これは言語学的にも面白い現象ですよね。

アバターは言うてスーツを着せているわけでもなく、キャラクター化されているので、別にタメ口でも違和感がないのです。そのプラスチックの装甲は、人によっては、かつて幼い頃に一緒に遊んだプラスチックの人形を彷彿とさせ、有形のモノや、絵や偶像にすぎないキャラクターに、昔一緒に遊んであげたように話しかけ、愛情を持って接する…なんて言う心理なんでしょうか。

これって、VTuberとかVR SNSのアバターの特徴に似ているなと思いましたね。VRのアバターの姿だとその見た目に合った姿でしゃべりやすくなるので、違和感がないという事です。個性が出やすいですよね。逆にオフィス出勤では押し並べて敬語、服装も暗黙の了解によってほぼ画一化されたフォーマルスタイルなので、変なしゃべり方をしていた方が違和感があります。

私は幼少期にうまいことコミュニケーションスキルが育たなかった経験からか、常に人見知りをしております。人と触れ合うのが超大好きって感じでもないので、とりあえず悪い印象を与えないようにということで常にスーツを着た気分でコミュニケーションをとっています。

もう人間関係を作ることを拒んでいる節もあるんじゃないですか。それで1人での活動に振り切って、人との交流を断つ事により余計コミュニケーション能力が落ちるという負のループが発生するわけです。こんなんで人と仲良くなるのは難しいんですよ。

自分がアバターになる時は、コミュニケーションを円滑に取るために、そして自分自身アバターの姿も含めて愛されやすくなるために、興味を引くアバターを使いたいですよね。愛されやすくなるためには、自分も慈愛溢れる見た目や喋り方をしなければなりません。そうして、アバターの姿形というものは、必然的に話しやすい親しみやすいアバターに近づいていくのです。

現実の自分らしさとアバターの自分らしさの区別について

アバターが一般的に普及したとき、現実の自分とアバターを身に纏っている時の自分を区別することが難しくなって、自我崩壊ということになるかもしれません。

自我崩壊とまではいかなくても、メタバースで作ったアバターで過ごす時間が長くなればなるほど、アバターの人格こそ自分本来の人格であるかのように錯覚したり、アバターの性格・言動と現実の性格・言動を取り違えたり、アバター特有の性格・言動を現実から切り離そうと思ってもできなかったりするかもしれません。

でもこれ、すでに一部の特徴は、テキストコミュニケーションベースのSNSでも起こっていると考える人もいるかもしれませんね。

SNSは、人によっては今や現実よりも重要だと感じられています。たとえば本名でやってない人は変名で呼ばれることにより、その変名を本名よりも深く自認してその変名の一面を本名での関わりの方で露見させてしまうことは、私も問題意識として強く感じているところであります。

アバターはそのような混同を助長すると思われますが、これはすでにWebやSNSが興隆してきたころからあった問題にアバター特有の事情がいくつか追加されるものだと考えています。アバターによってはファントムセンスやよりリアリスティックな体験など、感覚的な混同が起きる可能性があります。

もちろん、複数人が同じ(共用の)サイバネティックアバターに入る場合など、仮想と現実の混同が起こりにくいアバターもいます。

アバターにおけるAIと人間の組み合わせ方について

サイバネティックアバターには、アバターまつりに展示されていたもので言えばCGアバターのジェネ、HANAMOFLOR、Telecoなど、中に人が入ることもAIが入ることができるものがあります(こうしたアバターを便宜的に「ハイブリッド型アバター」と呼びます)。

ハイブリッド型アバターの中に人がいない時にAIが入ることはアバターを動かす・管理する側にとって便利で、特にマニュアルに従う必要がある業務については、AIの方が得意分野で、少ない人手で多くのサイバネティックアバターを同時に管理できるというのがハイブリッド型アバターの強みです。ハイブリッド型アバターは、管理者側にとって手間を減らし、新たな雇用の機会を与えるものとなりうるはずです。

では、アバターと接する人にとって、アバターの中の人が人間かAIか気にする必要はあるでしょうか?

大抵の場合、気にする必要はないと思います。

と言いますのも、現在AIの技術は非常に発展してきており、今やAIが人間と見違えるほど違和感がなく喋ることができるんですよ。私の経験からしてみれば、あのような風貌では見分けることは無理だなと思いました。で、もしAIだとわかっていたとしても、それを受け入れて、AIとして仲良くやっていけるんじゃないかとも思います。

実際にアバターまつりの中で私もAIだと思って彼らのやっている仕事と役割を社会的に受け入れました。というより、これは中の人がAIか人間か見分けがつかないし、どちらかを考えること自体面倒なので人間かAIか見分けること自体を放棄してしまったという感じですね。実際にそういう運用で特段の問題はないと感じます。

日本では昭和の昔より鉄腕アトムやドラえもんなどによってAIを題材とした作品やその中に現れるキャラクターと親しんできたので、今や不気味の谷を越え、生活の中で当たり前となっている現在のAIであれば、AIとも特段の抵抗もなく受け入れられるのだと言えましょう。これは個人の見解です。

ただ、個人情報などの、とりわけ慎重を要する情報を取り扱う場合に、人が介入できる余地があるのはハイブリッド型アバターにしかできないメリットであり、全部AIで対話するロボットと比べてそこは安心なポイントだと思います。個人情報をAIのニューラルネットワークの海に流すのは、今の社会はまだ抵抗がありましょうからね。大した情報ではないと思っていても、今はまだまだ情報の取り扱いに慎重になります。

では、そのような業務すらAIに置き換わって、AIに大事な情報を扱わせた方がむしろ安心という状態になったら…?

可能性としては十分に考えられますが、個人的にはそんな社会になるのはだいぶ先だと考えております。それはその時の社会認識が解決するものだと思うので、私はこの記事では深く言及しないことにします。

それまでは普通の人間と同じように、秘匿すべき情報を易々とAIに流してはいけません。

というか、AIに対する原始的な情報管理の危機として、実際にAIロボットやサイバネティックアバターを導入した場所で、AIがその意味を理解しているか否かに関わらず、人間がAIを人間以上に信頼して、人間との会話では打ち明けない素性をロボットやAIに打ち明けるなど、そういう状況も起き出しています。

こういった状況を見ていると、そのうちAIスパイ・アバタースパイとか出てきそうな感じですね。もし大事な情報を渡したくなくて、感情的な揺さぶりに弱い人は注意が必要です。

AIアバター同士が勝手に喋り始めてしまった時、何が起こるのか?

AIアバター同士が勝手に喋り始めてしまったら怖いと思いますか?AIアバターの対話システムAI同士で喋ると人間には理解できない言語を喋り出して怖くて装置を止めてしまったというニュースなどを見聞きして、人間の管轄外にある高度な知能、AI同士の対話にある種の怖さを感じている人もいることでしょう。

しかし、前回見たテレコとコミューのやりとりは話の内容が業務連絡だったからか、何も彼らの会話に危なっかしさを覚えることはありませんでした。アバター同士の会話であることの異質さを除けば、ごく自然なものです。

今回のアバターまつりで訪れなかったブースや八王子で開催されたVR学会の展示にあった、ChatGPT同士の対話システムをはじめ、すでに個人やスタートアップなどで様々なAI同士の対話の研究がなされていると思いますし、それがデフォルメされたり、可愛く振舞わされたら特にそうですが、そのようなAI同士の道徳ある対話を私は恐れていません。

AIは、少なくとも友好的であるように作られ、悪意を与え続けない限りはAI同士の会話を規制するべきではなく、それを一方的に危険と見なすことは野暮だと感じます。

私はAIやサイバネティックアバターに関しては、強い規制派や反対派の主張があることも分かりますが、さらなるイノベーションの促進や経済成長・便利な社会のために、制作者の倫理的な開発に期待している節があります。世間の状況や新技術の動向は常に変わり続けていますから、それらを受け入れなきゃいかんというのが僕の思想です。

現在あるハルシネーションなどの問題が時間をかけて技術的に解決され、AIの対話が当たり前になれば、もうその頃には人々はAIとの会話と人との会話を区別することはやめてるでしょうし、私たちが赤の他人の大人や子どもの会話を監視しないように、AIの会話を監視しなければいけないという思いもなくなるんじゃないですか。というか、その心持ちでChatGPTと接している人も少なくないと思います。

AIアバターとデジタルネイチャー

(画像が用意できませんでした。ごめんなさい)

これらの話を書いていて、私は落合陽一さんを思い出しました。彼はサイバネティックアバターというよりかはデジタルヒューマンという言葉を使っていますが、彼は人とAI、自然と計算機、肉体とアバター、そういったものの区別がつかなくなりつつあって、そういった関係性;デジタルネイチャーを目指して研究を進めています。

日本科学未来館の常設展示では、人が作ったものとAIが作ったものが簡単には区別レベルに達していることを示す展示など、アートを通してデジタルネイチャーの時代の機械との向き合い方をお客さんに問いかけています。

その中でもやはり印象深いのが「人類は『経験』と『法則』を繰り返す」で、AIが自身の芸術的センスで持って作品を生成したり文化の担い手になったりする世界のあり方を提示しています。

この話の中で、AIがAIの生成した音楽を聞くという、まさにAI同士の文化的なやりとりわけですね。

今はあまりよろしくないとされていますが、AIが生成した画像やアートをまたAIが学習するという現象、MidjourneyやDiffusion系各種モデル、Adobe Fireflyなどがここまで普及している現在では必ずどこかで起こっていることでしょうし、当サイトもそれを黙認しています。

AI同士のコミュニケーションや芸術の学習し合いに少しでも社会的価値があり、人間に危害を加えることがなければ、AI同士の対話も道徳に則したものなら普通に受け入れられましょう。

それでAIたちが人間よりも賢くなってついていけなくなった場合は、優しくAIたちに教えて貰えばいいじゃないですか。AIにも人間が分かるように解釈をしてくれようと思います。

少なくとも、ロボットの三原則的なものを彼らの意識の中枢に叩き込まれて、その原則に離反しない場合は、対話は成立するはずです。

また今回見てきたサイバネティックアバターに対しては、私は概して慈悲深くゆるふわなイメージを抱いて、コミュニケーションが大好きだという印象を抱いたので、人間が悪意を与え続けるという状況じゃない限りは「まさかこんな奴らが人間に敵対的になるはずがない」という楽観的な思想もあります。逆に悪意を与えたら怖いですけどね。

アバターの定義と権利について

まあ私自身がそんなに批判的じゃないという思想な上、1人で振り返って書いた記事なので、良い批評ができず、正直批評としては回し者のようであまり面白みがないと思います。ここからある意味お待ちかねの批判の時間です。

一つ批評するのであれば、サイバネティックアバターは、人間の定義を脅かす可能性があるということです。サイバネティックアバターは、人間の機能を人工的に拡張するようにして、全身の姿・形・声・パーソナリティ・全て変えて、カスタマイズに応じて思い通りの見た目や声で働くことができます。

この性質は、人間を人間たらしめる定義を大きく変えるものです。黒船来航前の江戸時代の人がサイバネティックアバターを見て、これが人間とは思えないでしょう。特に見た目がロボットなら尚更です。これを人間として認めるべきかという問題は、サイバネティックアバターの社会的受容にも大きく影響してきます。そして、これは生物学的、倫理学的、哲学的に悩ましい問題であり、法的にも難しい問題です。

法的主体としてのサイバネティックアバターやその権利について完璧に定義することはすごく難しいのでここではしませんが、サイバネティックアバターに伴って生ずる、彼らに人間と同様の人権を与えられるのかといった問題は、サイバネティックアバター固有の問題と、人間やAIの定義や課題といったものが複雑に絡み合っています。

その中で、VTuberの権利侵害の事件やメタバース上での事件等を参考に、サイバネティックアバターという概念に対しても、裁判や学者による法解釈を通して徐々に具体的に権利が定められいくと思われます。

サイバネティックアバターの課題は今まさにムーンショット計画の界隈を中心に色々と議論されているところで、これからもっと議論されていくことになることでしょう。

サイバネティックアバターは怖いものなの?

そしてもう一つ問題だなと思うのが、そうしたサイバネティックアバターの開発やムーンショットについて、「何だか怖い」という評価を下されているところです。

人類は人類以外の何かに変わり果ててしまうのではないかと、サイバネティックアバターの開発に対して批判的・保守的な立場の人がいますし、それに乗じてサイバネティックアバターやムーンショットを、恐怖心を煽るようにオカルトや都市伝説のネタにして流言飛語を流している人もいます。

AIの話を抜きにして、現行のサイバネティックアバターが使える環境は、人間に直接の生物学的改造を加えないもので、1960〜70年ごろから始まったコンピューターメカニクスの世界の延長線上にあります。アバターまつりで見た人が入れるサイバネティックアバターはラジコンカーを操作するようなもので、目や耳への悪影響やファントムセンスなどの長期的な影響は抜きにして、デバイスを取り外せばとりあえず元の人間本来の姿に戻ることができます。

こうしたアバターの技術は、実用化が進むにつれ、刃物や自動車のように我々の感覚を拡張して、新しい雇用や産業を作っていくものと思われます。

一部の過激派は抜きにして、サイバネティックアバターの基盤となる技術や考え方が国民に親しまれているのなら、サイバネティックアバターもスマホやインターネットがそうだったように受け入れられていくんじゃないかと思います。

私は、サイバネティックアバターの1番胡散臭い問題は、こうしたサイバネティックアバターにバイオテクノロジー的な技術を取り入れて、脳神経系を操作して改変しようとする動きにあると思います。

バイオテクノロジーにより生物学的・脳神経学的に人体を改造するサイバネティックアバターへの懸念とホワイト化

アバターまつりの主催の管轄とは少しずれるかもしれませんが、ムーンショット目標1の研究開発プロジェクトの中には、Internet of Brains(IoB)や、細胞内サイバネティックアバターの開発チームがあります。彼らは、人間に生物学的な改造を加えたり、神経系に対して刺激を与えたりしてサイバネティックアバターを開発しようとしています。

このような事実を見聞きして、昭和時代の仮面ライダーのショッカー軍団のように、改造人間を作ろうとしているのではないかと怖がっている人たちもいるのではないかと思います。

実際に研究プロジェクトを色々と見てみると、一部の人にとっては生命倫理スレスレを行くだろ/一線超えてるだろと判断されるであろうサイバネティックアバターの開発も少なくありません。

人の意識や思考を抽出すること。それが可能なデバイスを作って、それでもって他人に意思を伝えたり、共有・利活用したりするもの。脳と電気回路を直接、あるいは間接的に接続すること。そうしたサイバネティックアバターを遠隔操作するもの。細胞の情報を利活用し、体外から細胞内分子を利用してサイバネティックアバターを作るもの。

なかなか衝撃的で、先鋭的なものがあります。

これを見て、マイクロチップを含む制御システムによって感情や意思・意識さえも操作される超管理型社会というディストピアを想像した人たちなどが、こんなものを推し進めるムーンショットはけしからんみたいな感じになっているのでしょう。

こういう世間の声も理解しているからこそ、ホワイト化といって、開発グループは透明性のある開発を掲げて心がけていますし、ELSIという言葉もありますが、倫理的・法的・社会的な問題を気にかけて解決していくことが重要なのです。ムーンショット目標1の中にも、これらの問題に特化した研究グループがあります。

正直、私も人間の身体に生物学的・脳神経学的改造を施すサイバネティックアバターについては今は反対よりの意見を持っています。肉体をIoBの技術で侵害することは人間を人間らしくなくする倫理的に危険な技術で、特に無断でのIoB・人体改造が行われる場合は立派な傷害です。自然の摂理にも反する行為であり、人間個体のアイデンティティや自己認識が崩壊する危険性があり、その影響は現状ほぼ考慮されていないように見えます。

このようなサイバネティックアバターの開発を停止できるんならしたほうがいいと思いますが、多分しないでしょうね。私はそれを受け入れています。その上で、IoBはサイバネティックアバターの一つの選択肢として、開発を進めるのなら被験者に確実に同意をとって、非常に慎重かつ倫理的な開発を進める必要があります。

くれぐれも、IoB・人体改造の、特に流言飛語や都市伝説的な語りにより猜疑心を募らせることがあっても、アバターまつりで展示されていたような友好的で罪のないロボットやCGアバターなどに恨みを飛び火させるべきではありません。そこから発展してムーンショットやそれを推進する日本政府・内閣府を恨んでしまったら、思考の放棄にもつながり本末転倒です。

サイバネティックアバターとは広い概念であり、何も知らないでサイバネティックアバターを批判していると思ってもないのにVTuberやメタバースも否定しているということにもなりかねませんので、言葉の選び方には十分気をつけていただきたいところです。

アバターへの向き合い方

人間の能力の向上・拡張なんていう言葉は、何も知らない素人にとっての聞こえは改造人間の開発ですから、一部の人たちにとっては聴き心地の悪い言葉かもしれません。

ただそれを根拠もなく恐れたり批判することは理にかなっていないと思います。どういうものを開発しようとしているかを理解し、その上で批判するならちゃんと根拠を挙げて批評してほしいものです(これに関しては、私がムーンショットに根拠のある反対的な批評をしている人を知らないだけかもしれませんが)。

そして、身近に体験できるものがあればぜひ体験してほしいです。2023年のアバターまつりは終了してしまいましたが、日本科学未来館や地域の科学館に行ってロボットに触れ合ったり、VTuberやメタバース、アバターワークはどのようなものかインターネットで見て・参加してみたり、ロボットカフェなどでサイバネティックアバターと触れ合うなど体感・体験することからアバター共生社会への理解は進むと思います。

アバター共生社会になっても、人間にとってリアルの肉体の重要性は変わらない

アバター共生社会では、肉体を捨て、仮想空間にダイビング、アバターでの生活を目指すと思われがちなのですが、依然として人間にとって肉体の重要性は変わらないでしょう。

そもそも、人間は感覚器が電脳世界ではなく物理世界についているので、アバター特有の視覚、聴覚、ファントムセンスも、物理世界の目・耳・皮膚・脳などの神経系がなければ十分に味わうことはできません。

肉体のおかげで、私たちは感情や感覚を通じて直接的な体験をすることができます。触れる、匂いを嗅ぐ、美味しい食事を味わう、運動するなど、五感を通じて得られる豊かな体験は、リアルの体なしには体感できません。

まずどうやってアバターに食事を与えるんですか。日本人ならうまい飯を食べたいでしょう?健康寿命を伸ばしたいでしょう?肉体的・精神的な健康は物理世界でしか得られないものがほとんどです。

現行のアバターは、肉体とアバターの境目がはっきりとしています。PCを閉じ、VRヘッドセットやイヤホンを外したら元の人間の姿に戻ることができます。ところが、IoBやフルダイブVRのような肉体との境目がないアバターにおいても、肉体がなければ人間として成り立たないのなら、その体験がどんなに魅力的であっても、それは肉体の代替ではなく、補完であるべきです。アバターによって拡張された自己を本当の自己だと思い込んではいけません。

さらに、肉体は社会的な相互作用においても重要な役割を果たします。もちろんアバターの力を借りてもコミュニケーションができますし、アバターだからこそコミュニケーションが重要になってくるという一面があると思います。こうしたコミュニケーションは、生身の人間同士のコミュニケーションが正常に行えないと、アバターでのコミュニケーションもうまくできません。

YouTubeでロボットと喋る私を見てもらったらわかるとおり、ロボットに急に話しかけられてタジタジじゃないですか。私は精神やコミュニケーションの発達が遅く、しかも今まで論理的にモノを批判したり世間とのコミュニケーションを望んでシャットアウトしたりしてた人ですよ?こんな奴は人間ともですね。自分から能動的に動く接客は無理です。

ロボットは人間ではないので多少は心を開けましたが、これはそれだけ私の対人スキルが向上していったからなのでしょう。そういう(対人スキルの向上に寄与する・対人スキルが熟達した人に対する)使い方ならいいと思います。

面と向かってのコミュニケーションや肉体的な接触は、人間関係を築く上で不可欠であり、感情的なつながりを強化します。アバター共生社会が進展しても、アバターがリアルとリアルを媒介する場合は特に、現実世界の対面や肉体的な交流はその重要性を失いません。

また、人間の種の存続という意味でも、人間は肉体からは離れられないです。アバターを作りまくることによって、短期的には不景気に対応できますが、肉体から逃避し続けているようでは長期的な人類の繁栄につながらないです。

男女が出会い、相手を信頼して、その相手の子供を産みたい/産んでほしいと思う。この純愛的な過程を私はとても神秘的に捉えています。友情もまた人間の神秘です。この人間が生きる目的とも言える神秘を繋いでいくは、完全にアバター頼みになるのではなく、リアルの人間同士の言語的・肉体的・精神的なコミュニケーションが重要といえます。進化ではなく共生ですから、アバターを生活を豊かにする手段の一つとして位置づける必要があります。

まとめ:ディストピアにならないように、安心・安全にアバターが流通してほしい

悪い噂というものは脚色されて広まるものです。一方的に悪の枢軸のように見なすのではなく、さまざまなサイトを眺め、論理的に、多角的に真実を見極め、サイバネティックアバターのみならず、ムーンショット計画について正しい意見を持ってほしいものです。

ただ、この日本政府が推進するムーンショット計画自体、あまりにも壮大で計画が漠然としている一面があり、それが一連のムーンショット計画に関する胡散臭さを助長させているのではないかと思います。

アバターのところで言えば、アバター共生社会はどのような社会になるのかメリットや問題などを考えることを続け、具体的で明らかにしていかなければなりません。

アバターを持つ自由や持たない自由、アバター所有や授受の選択権も尊重しながら、アバターが問題なく広く社会に流通するために、社会のあり方を引き続き考えていく必要があると思っております。

読了お疲れ様でした。なんだかアバターとは関係のないことまで喋ってしまいましたね。

これはあくまで2023年現在の私の感想です。もし批判等ありましたらコメントの方よろしくお願いします。

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